院長コラム

介護保険制度について考えること

 介護保険の制度が始まった初期の概念は、要介護者の生活を家族だけではなく地域の人々が助け合って支えようというものであったように記憶しています。
 今後、この国の人口全体の中で高齢者の占める割合はますます大きくなっていきます。
 このような状況の中でこれからの介護保険制度のあり方を考えるときに、最も重要なことはこれから介護保険を利用する人々の意識ではないかと思います。
 この国は、かつて国民の勤勉さで知られていました。
 今でも、多くの方が「生涯現役」を志して充実した日々を過ごしておられます。
 このように毅然とした姿勢で生きておられる高齢の方々をみると、すがすがしさを感じ自分も生涯現役で頑張らなければならないと感じます。
 さて、学会や研究会に参加するたびに、日本中の津々浦々、介護保険によって町中にデイサービスが乱立しているのを目にします。
 朝にバスが迎えに来てくれ、夕方まで高齢の方々を預かってくれるのですから、仕事が忙しくて高齢の家族の面倒をみる時間のない人たちにとっても、このデイサービスはありがたいのではないかと考えます。
 その意味では託児所ならぬ託老所といえるでしょう。
 デイサービスの施設では、介護が必要な方々に安全な環境や、介護者や他の利用者とのふれあい、昼食、そして入浴の機会が提供されますから、多くの高齢者にとって「行きたい場所」となっていることは間違いありません。
 しかし、このような事実にも関わらず「デイサービスには絶対に行きたくない」という方もおられます。
 高齢であっても自立したひとりの人間として社会に参加して生活したいという方々です。
 これらの方々は、たとえ高齢になっても、自分の家を守り、仏壇にお茶やご飯を供え、ときには自分自身で簡単な食事を作り、庭の草取り、墓参りなどそれぞれの家のためになることを自ら率先して行ない、毅然として生活しておられます。
 さまざまな方面で社会に積極的に参加しておられる高齢の方もたくさんいらっしゃいます。
 この方たちは決して素晴らしく健康な方たちではなく、むしろ慢性疾患と長期に上手につきあっている方が多いのです。
 この自立型の高齢の皆さんに共通して感じられるのが人間としての気概です。
 この気概を持ち続けていきたいといつも思います。
 今は、悲しい時代です。
 多くの皆さんが、まだ介護の対象とは考えられない、まだまだ充分に家や家族のために働ける年齢のうちから介護保険の利用者たらんと介護認定の申請をしています。
 なぜならデイサービスを利用したいからです。
 友達の○○ちゃんも行っているし、行けば皆に会えるから、家では遠慮な入浴をさせてもらえるから、介護タクシーが使えるからなどの理由で「どうしてこの人が対象者なの?」と疑問を覚えるような申請者が続々と後に続くのです。
 今、この地域の介護認定審査会の会長を務める身として、このような風潮には言葉もありません。
 介護保険というものがこの世に存在し、それを利用する仕組みがある限り「認定をとれるものならとっておきたい」という考えの申請者が続きます。
 利用者を増やしたい施設が、高齢者と見れば介護(認定)申請をすすめるケースもあると聞きます。
 より重度の認定が得られれば、より多くの介護サービスを受けられる⇒施設も儲かる という仕組みですから、高齢者に盛んに申請をすすめて自分の施設に通わせようとするような姿勢の施設では、働く人々のなかに「利用者の皆さんをなんとか自力で生活できるまでに回復させたい」とか「もっと頑張ってもらいたい」とかいう意識は希薄でしょう。
 まして、介護保険の存在の主旨を深く考えず「申請=食事と入浴の提供される楽しい場所へのパスポート」「申請=介護タクシーの利用券」と考えておられるような高齢者はどうでしょう。
介護保険制度によるサポートが真に必要な方は今後の高齢化社会の中でますます増えていかれると思います。
とすれば、今のうちに真剣に介護保険制度の適切な運営を考え、将来「真に必要な利用者」がこの制度を充分に利用することができるようにすることが肝心であると考えます。
 しかしながらこの制度の意味を知らず、なんらかの社会サービスのように考えておられる方たち、そしてこの制度を自己の利益のために利用する経営者たちの存在がある限り、この国の行く末は暗いと考えます。
 真に介護が必要な人々のために生まれた制度を「いつでもサービスが受けられるように少しでも早く認定されれば儲けもの」という考えで申請することに疑問を抱かない人々が限りなく増大していけばこの国はどうなるのでしょう。
 このような考え方が日本全国で進んでいけば、この国の高齢者の大半が要介護者で介護保険サービスの対象となることでしょう。
 介護認定審査会には多くの申請が上がってきます。
 審査会を前に、申請者ひとりひとりの資料を読み進むたびに、真に介護サービスを必要としている人々の毎日の生活を想像し、ひどく重い気持ちになることもあります。
 このような方たちにこそ介護サービスが厚くなければならないと思います。
 同時に、他人の手を借りなくとも生活できるのに、安易に人の手を借りて生きようとする人々の存在、まだ社会や家の中で何らかの役割を果たすことができるのに、自ら働く喜びを捨て去ろうとしている方たちの存在を思い、再び重い気持ちになります。
 日本人はいつからこのようになってしまったのでしょうか。
 高齢者本人の意識が変わってきたのか?
 それとも高齢者を家族にもつ人々の意識が「使えるサービスは使わなければ損」というように変わってきたのでしょうか。
 高潔な意志をもつあまり他人に助けを求めることができずに亡くなって発見される方がいる一方で、医師から見て疑問に思われるような申請者の存在があります。
 この方たちに必要なのは通常の介護ではなく、自立することをあきらめた心のケアではないかと思うこともしばしばです。
 いずれにせよ、これからの介護保険のあり方を見直すことが必要ではないかと思います。
 そしてその過程で私たち日本人は、失われつつある私たちの美徳を取り戻すべきではないでしょうか。
 自立して生きられるうちは安易に他人に頼らない高潔な精神を取り戻し、自立することができる高齢者が安易にデイサービスの世話にならず、家でも社会でもできることを行ない、生き生きとした喜びに満ちた日々を送ることができる社会の実現を念じてやみません。
 生涯現役の目標を強く持ち続け、長期的な健康管理を行なって体調を安定させ、世話になるより世話をするという気構えで、最後まで社会や家族の一員として何らかの役割を果たしていくことが脳の活性化を導きます。
 社会や家族の役に立っているというその意識が、かけがえのないプライドとなり、気力を充実させ、心身ともに健康な長寿をもたらします。
 安易な理由で介護申請を行ない、自分の能力を過剰に低く申告し、ついに目的を達してデイサービスや介護タクシーを利用している皆さんに確認したいことがあります。
 皆さんは知っていますか? 昼食が出されても、入浴設備があっても、デイサービスは娯楽施設ではありません。
 そこを利用している皆さんは要介護者として、この社会の中の弱者と考えられているのです。
 そして心ある人々はこのようなことを決して心の中で容認してはいません。
 この事実を知っていますか?

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